「本泥棒」/世界は美しくも醜いシチュー | 旧・日常&読んだ本log

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流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

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マークース・ズーサック, 入江 真佐子

本泥棒


語り手は死神。
表紙が全てを物語っているけれども、これは少女と死神(実際、大鎌は持ってないらしいけれど、人間はこのような姿を想像する)と本の物語。

「すてきとは無縁」であるそうだけれど、誠実に任務にあたるこの死神が見るのは、まず色、そして人間なのだという。一度に数万単位の魂を運ぶこともあるこの死神。魂が一人であっても数万の単位であっても、彼は彼なりに心を痛め、そのため、時にその痛みから気をそらすことが必要になる。生き残った人間たちの心の痛みに共感してしまう、心やさしき死神…。これは彼が語る、「生き残った者」、サバイバーである、ある少女の話。死神が長い間、ポケットに忍ばせていた一つのお話…。

その少女とは、ミュンヘンの郊外にある町、モルキングのヒンメル通り(訳:天国通り。皮肉なことに、そこは天国とは程遠い、貧しい人々が住む通り)に住む、フーバーマン夫妻の元に里子としてやって来た、リーゼル・メミンガーのこと。厳しい里親の母さん、ローザ・フーバーマンに、優しい里親の父さん、ハンス・ふーバーマン。親友の近所に住む少年、ルディ・シュタイナー。リーゼルは時に亡くなった弟の悪夢に魘されつつも、周囲の人に見守られて成長していくのだけれど…。

その人の真価が分かるのは、彼等に危機が訪れたとき。リーゼルは厳しく口の悪い母さんの優しさを知り、父さんの強い優しさを知る。それは1940年の11月のこと。ユダヤ人の青年、マックス・ヴァンデンブルグが、庇護を求めて彼らの元にやって来る。ナチス政権下のこの時代、この場所でユダヤ人を匿うというのは、実に大変なこと。彼らはそれをほぼ完璧にやり遂げるのだけれど、父さんの一つの失敗からマックスはこの家の地下室を去り、父さんは戦場へ送られる…。

部のタイトルは、それぞれちょっと奇妙なものだけれど、これはリーゼルに影響を与えた本のタイトルからとられている。このうち、「見下ろす人」と「言葉を揺する人」は、作中作、ユダヤ人、マックスがリーゼルのために創った物語。これもまた、アートワークを含め、非常に良いのです。

「言葉を揺する人」=ワード・シェイカー。最高のワード・シェイカーは、言葉の真の力が分かる人。リーゼルは普通一般の読書好きとは違うと思うけれど(彼女が最初の本「墓掘り人の手引書」を読んだ時、彼女は字を読むことすら出来なかった!)、言葉を一つ一つ噛み締めるようなその読書には、こちらも考えさせられてしまう。里親のローザがリーゼルに言う「ろくでなし」、リーゼルがルディに言う「ろくでなし」という言葉の響きの実に甘いこと!

物語中で、散々、死神から警告されるのだけれど、物語は当然のように悲劇的な終末を迎える。そこにほんの少しの希望はあるのだけれど…。

 わたしは言葉を憎み、言葉を愛してきた。

多くの人にリーゼルの、マックスの、そして著者ズーサックの言葉が届けばいいな、と思う。

著者ズーサックは1975年生まれ。彼はドイツとオーストリアから移民してきた両親の間に、オーストラリアで生まれたのだという。「訳者あとがき」によると、ズーサックには、子供時代に両親から何度も聞かされた第二次世界大戦の話の中で、どうしても忘れられない二つのことがあったそう。一つはミュンヘンが空襲にあったときの異常なまでの空の赤さ、もう一つは弱った体で行進させられているユダヤ人にパンを差し入れたドイツ人の少年が、兵士にひどく鞭打たれたこと。どちらも、この物語の重要な場面となった。誠実に想像力を働かせた結果がこの本なのだと思う。

沢山のエピソードがあるのだけれど、私が好きなのは町長夫人とのエピソード。最後の和解の部分がいい。

目次
プロローグ 瓦礫の山
第1部 墓掘り人の手引書
第2部 肩をすくめる
第3部 わが闘争
第4部 見下ろす人
第5部 口笛吹き
第6部 夢を運ぶ人
第7部 完璧なドゥーデン辞書・シソーラス
第8部 言葉を揺する人
第9部 人類最後のよそ者
第10部 本泥棒
エピローグ 最後の色
 謝辞
 訳者あとがき


☆ナチス関係の本の過去記事☆
いずれもフィクションだけれど、力強い。
密やかな結晶 」/消えていってしまう・・・
マグヌス 」/記憶、断片、人生