「心臓を貫かれて」/家族とは何か | 旧・日常&読んだ本log

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流れ去る記憶を食い止める。

2005年3月10日~2008年3月23日まで。

以降の更新は、http://tsuna11.blog70.fc2.com/で。

有閑マダムさんの所で知った本書。分厚いです、重いです(内容、質量共に)。

有閑マダムさんの記事はこちら

マイケル ギルモア, Mikal Gilmore, 村上 春樹
心臓を貫かれて
 
目次
プロローグ
第一部 モルモンの幽霊
第二部 黒い羊と、拒絶された息子
第三部 兄弟
第四部 ある種の人々の死にざま
第五部 血の歴史
第六部 涙の谷間に
エピローグ

何とも刺激的な「心臓を貫かれて」というタイトルに、心臓を描いた表紙。

ここでいう、「心臓を貫かれて」とは比喩表現ではない。実際に、著者マイケル・ギルモアの兄、ゲイリー・ギルモアは「心臓を貫かれて」死んだのだ。

モルモン教においては、かつて「血の贖い」と呼ばれる一つの教義があったのだという(ただし、近年に至っては、モルモン教会はこのような解釈を否定している)。

 もし人が命を奪ったなら、その人の血は流されなくてはならない。絞首刑や投獄は、罰としても償いとしても十分ではない。死の方法は、神への謝罪として、地面に血をこぼすものでなくてはならない。      (P43より引用)

著者の兄、ゲイリー・ギルモアは、二人のモルモン教徒の青年を殺害し、死刑宣告を受けた。おりしも、時代は死刑制度を復活させたばかりであり、更に犯罪の舞台となったユタ州は、死刑復活の法案をいち早く通過させた最初の州のひとつだった。

ゲイリー・ギルモアは現代アメリカにおいて、時代を代表する犯罪者の一人であり、彼の生涯はベストセラー小説の題材となり、テレビ映画にもなったのだという。この現代において、正直、人を二人殺したからといって、(それは勿論大変な事ではあるけれど)稀代の犯罪者となるわけではない。ゲイリーが有名になったのは、罪科の故ではなく、自らの処罰決定に彼自身が深く関わったから。ゲイリーは死刑判決に対して上告する権利を放棄し、刑の執行を望み、望みどおりに銃殺されたのだ。日本で言えば、池田小児童殺傷事件の宅間守を思い出す。彼らの望みどおりという意味で、「死刑」は既に罰ではなく、合法的な自殺であったとも言える。

さて、本書はこのゲイリーの実弟マイケルが著したものであり、なぜゲイリーが殺人を犯し、銃殺刑を望むに至ったのか、彼らの両親の育った環境まで遡って、丁寧に辿られる。年の離れた兄弟であったゲイリーとマイケルは、その生活環境や少年時代の家庭環境においてもかなり大きな隔たりがあり、マイケルはこの本を書くことによって、家族を取り戻したのだとも言える。たとえそれが、おぞましく暗い家族であったとしても。

そんなわけでこの本には、死刑制度の問題や家族の問題、虐待の問題、家族における秘密の問題、宗教の問題など、どれをとっても重いテーマが含まれている。

人は怪物になることが出来るし、怪物を作り出す事も出来る。
しかもそれが、本来守られるべき、憩うべき場所である家庭で起こることもしばしばあるのだ。

ここからは、細部の感想になります。
長いけれど、よろしければお付き合いくださいませ。

 一人また一人、順番にみんなが死んでいくのを見てきた。最初は父だった。それから兄のゲイレンとゲイリー。最後が母―見る影もなく打ちのめされ絞りとられたひとりの女。あとに残ったのは末っ子の僕と、長男のフランクだけだ。でもある日、家族の歴史の苦痛に耐え切れなくなったとき、フランクは何も言わずに陰の世界へと足を踏み入れていった。        (P24より引用)

 僕は今、家族の中に戻っていきたいと思っている―その物語の中に、伝説の中に、記憶と遺産の中に。僕は家族の物語の中に入り込みたいと思っている。ちょうど僕が、みんなで少年時代を過ごしたあの家を囲む夢の中に入り込みたいと、ずっと望んできたように。そこに入り込んで、いったい何が夢を台なしにして、かくも多くの生命を破滅に追い込んだのかを、探り当てたいと思う。
 どうやら家族の過去の構造が、僕にとっての謎の中心にあるらしい。その過去の歴史を検証することによって、解決の鍵を―そうか、こいつがかくも多くの喪失と暴力をもたらしたのか―見出すことができればと思う。それが解明できたなら、僕はさらなる喪失をまぬがれることができるかもしれない。
 僕は過去に戻る。自分には何も見出せないかもしれないと危惧しつつ、あるいはその一方で自分があまりに多くのことを見出してしまうかもしれないと危惧しつつ。でもこれだけのことはわかっている―僕らはみんな、僕らが生まれるずっと前に起こった何か、知ることを許されなかったその何かに対しての代償を支払ってきたのだ。   
                     (P25より引用)

読者はマイケルとともに、この家族の中に深く入り込んでいく事になる。

四兄弟のうち、年の離れた兄弟であったマイケルは、幸いにも他の兄弟たちのように父に虐待されて育ったわけではなかった。彼らの父フランクは、息子が彼に反抗することを許さなかった。父が年老いたということもあるけれど、マイケルの場合、反抗期を迎える前に、父が亡くなってしまったというわけ。兄弟のうち、真に父親を愛す事が出来たのは、唯一マイケルだけであるといえる。意味もない精神的、肉体的虐待を受けた相手を愛する事は難しい。愛して欲しいと願っても、返って来るのは虐待ばかりなのだ。また、マイケルは一つ所に落ち着いて暮らすことが出来たが、他の兄弟達はそうではなかった。彼らはまるで何かから逃げるように、移動に移動を重ねる家庭の中で育ち、そこには常に父による暴力があった。

しかし、以下の言葉もまた真実なのだろう。地獄を共にする事で、家族となるのであれば、その地獄を共有しなかったマイケルは、真に家族であるという実感をもてなかった。であるから、マイケルはこの本を書かなくてはならなかったのだろう。

 おそらく、同じ地獄を通り抜けなくてはならなかったが故に、たとえ一時的であるにせよ、兄たちはほんものの兄弟であったのだ。それらの写真に写っている顔を目にするとき、僕は彼らを憎む。憎みたくなんかないのだが、憎まないわけにはいかない。兄たちを憎むのは、彼らの写真の中に僕が含まれていないからだ。兄たちを憎むのは、僕が彼らの家族の一部ではないからだ。たとえそれがどのような恐ろしい代償を求められることであったとしても。     (p77より引用)

僕らはみんな、僕らが生まれるずっと前に起こった何か、知ることを許されなかったその何かに対しての代償を支払ってきた」。本書には時々オカルトチックな場面が出てくるのだけれど、それらの現象はここでいうこの「何か」に端を発しているように見える。彼らの父であるフランクが抱えていた謎、母ベッシーが、兄ゲイリーが墓場まで持っていってしまった謎。ネタバレしてしまいますが、本書の終わりに至るまで、実はこの謎は解明される事はない。ノンフィクションではあれど、この謎にミステリー的な興味を抱いた私には、ここの部分はちょっと肩透かしではあっ

少々の事では動じないと思われる、母ベッシーや兄ゲイリーが立ち聞きしてしまったことを後悔するほどの、父の抱えていた大きな謎。それは一体どんなに恐ろしいものだったのか。家族は秘密を抱えたまま、家族たりえるのか。それが分からない事で、余計恐ろしいものに見えるようにも思うし、暗い、重い秘密は染み出て、その家族に影を落とすのではないか、とも思った。「謎」を抱えたまま、人生を生き抜くのは辛いこと本書を上梓したあとの、マイケル・ギルモアの人生も気になる。

呪われた家族の、たった二人の生き残りである、長兄フランクと著者マイケル。フランクはこの家族にその最期まで付き合い、マイケルはそこから逃げ出す事で、成功した音楽ジャーナリストとなった。マイケルが探し当てたフランクは、傍目には成功したとはいえないし、惨めな環境にいたけれど、その心は美しかった。あんな環境に生まれ育ち、色々な苦しみを受け、家族の面倒を引き受けた後、ひっそりと姿を消していたフランク。なぜにこんな崇高な心をもてたのか。美しい何かを自分の代わりとして愛することで、自分の状況に関係なく力を得る事が出来る。物語の中にそういった場面が出て来るときは、いつも陳腐だと思っていたのだけれど、現実のこの関係はとても美しかった。フランクは孤独ではあるけれど、愛を知る人なのだと思う(しかし、苦難ばかりの人生の中で、一体どこで愛を学ぶ事が出来たのだろう! そして最後に明かされる一つの秘密は皮肉でもある)。

 「俺は思った。『おれたちのうちの一人は―たった一人だけだが―なんとかうまく抜け出せたんだ。成功したんだ。そっとしておいてやらなくちゃならない。幸福なままにしておいてやらなくちゃならない。それがせめてもの俺にできることだ。そのまま行かせてやろう。あいつが家族の絆に縛られていなくちゃならない理由は何もないんだもの』ってな」       (P569より引用)

家族の中を、いつも絶望、暗闇が支配していたわけではない。しかし、彼らのうち誰かが、家族に救いを求め、転換点となり得る時点があったとしても、この家族は彼らに救いを与える事は出来なかった。いつもタイミングがずれていたのだ。そういう意味で、確かにこれはこの家族にかけられた「呪い」だったのかもしれない。

また、「荒廃」という言葉が何度となく出てくるので、何となく荒れた食事風景や汚い生活環境を思い浮かべるのだけれど、ボロボロの家に住んでいた時期もあるとはいえ、最終的に彼らは美しい家に住んでさえいる。両親とて、「家族をやり直す」こと、きちんとした家庭を作る事を全く望まなかったわけではないのだ。しかし、美しい家、美味しい料理などの目に見える形が、家族を救うわけではない。母ベッシーは「美しい家」に狂信的に固執するし、美味しい料理はいつも喧嘩の材料として床に投げ捨てられるためだけにあった。

でも残りの僕らは、最終ページのまだその先まで、人生を生きていかなくてはならない。その人生の中では、死者達の残した波が収まることは、絶えてないのだ。
                                  (P547より引用)
わたしたちの人生は死のその瞬間まで続く。
本書を読んだ事で、私の中にも一つの波が出来たように思う。

*臙脂色の文字の部分は本文中より引用を行っています。何か問題がございましたら、ご連絡ください。
*既に文庫化もされているようです(文春文庫より刊行)